【仏教美術】2019年2月 仏教美術入門の入門 参禅会で涅槃図を観る

【仏教美術】2019年2月 仏教美術入門の入門 参禅会で涅槃図を観る

【プロローグ】

2月第4週の土曜、近所のお寺の参禅会(坐禅の会です)に行ってきました。

このお寺では、毎月第4土曜日の午前7時から8時まで、参禅会が催されています。

事前予約は不要かつ誰でも参加出来るので、かなり気楽です。負担する費用もありません。

もちろん子供も参加OKですが、40分くらいは大人しく座っていなければならないので、継続して参加する子供はいまのところ見たことはありません。

かつて子供たちをそのお寺が経営している幼稚園に通わせており、それがご縁で参加させていただくようになりました。

ただし、ここ半年くらい顔を出しておらず、そろそろ忘れられそうだなと思っていたのですが、辛うじてつながる細い縁の糸を、自分の怠け心で断ち切るのは本意ではありません。

前日の宴酒の余韻を残す体に鞭打ち、会場に足を運びます。

まあ、こんな展開になってるのは普段の心構えがなってない証拠と十分に自覚してはいますが・・・。

今回は私を含めて6名の参加。全員常連さんですね。顔見知りですが、親睦が目的ではないのでお名前は聞かないし聞かれない。そんな弱い紐帯のようなつながりが私には心地良いものに感じます。

【坐禅の作法】

坐禅
画像はイメージです

https://www.sotozen-net.or.jp/(←坐禅の作法の詳細はこちらをご覧ください)

両手を叉手(しゃしゅ)に組み、左足から入堂します。入ってすぐ右の位置に坐蒲(ざふ)の置き場があるので、自分が使う坐蒲を取り、両手で持って進んでいきます。

堂内は線香の仄かに薫る清浄な空気に包まれていて、歩を進めるにつれ自分が日常から徐々に切り離されていくような安堵を覚えます。

本堂の中央に進み、ご本尊に合掌低頭(がっしょうていず)します。

中央にはお釈迦さまの座像が祭られ、右手には日本における曹洞宗開祖である道元禅師の座像が、左手には瑩山(えいざん)禅師の座像が祭られています。

瑩山は曹洞宗二大本山の一つである能登の総持寺(そうじじ)を開いた人なので、このお寺は当時は同寺の配下にあったものとみられるとのこと。

また、座像が祭られている位置よりも手前の、向かって右側の欄間からは、幅2メートル弱、全長3メートルほどの掛軸がかかっています。

その掛軸には一回り小さな和紙のような紙材が貼られ、そこには涅槃に入るお釈迦さまの絵が描かれていましたが、これは初めて見るような気がします。

また、ご本尊を仰ぎ見つつ導師が仏事を執り行う位置の頭上には黄金の人天蓋が輝き、その周囲を囲むようにして4対の幢幡(どうばん)と呼ばれる荘厳具が吊り下がっています。

その絢爛豪華さを目の当たりにすると、「いったいいくらするんだろう?」という品のない思念が脳内を支配します。

合掌低頭した位置の左側の太い柱の脇には経本が備えてあります。

それを手に取り、更に奥の座所に歩を進め、参加者各々が自分の座る位置を決めていきます。

対坐問訊(たいざもんじん)を行い、着座します。正式には対坐問訊の前に隣位問訊(りんいもんじん)をするようですが、この作法は省略してますね・・・。

着座して足を半跏趺坐(はんかふざ)に組みます。私は右足を左ももの上に置いています。

正式な座り方は、右足を左ももの上にのせ、左足を右ももの上にのせる結跏趺坐(けっかふざ)ですが、私には少し難しいです。

両手は法界定印(ほっかいじょういん)に組み、左右揺振(さゆうようしん)を行って姿勢を整えます。

住職の鳴らす鐘を合図に、坐禅が始まります。

このお寺は曹洞宗なので、面壁坐禅を行っています。

視界を遮る板が目の前にあり、半眼で視線をやや落として板を見ます。しかし、見ようと思って見るのではなく、ただ見えている状態と言いますか、見えるものを、見ているようで見ていない状態が理想のようです。

つまり、余計なことは考えず「ただひたすらに座る」只管打坐(しかんたざ)という状態ですが、これが実にむずかしいですね。

鍛錬の出来ていない脳は、すぐに取り留めなく動き出します。

あまりにも無秩序に動くので、それを鎮めるため、あまり受けたくはないものの、警策(きょうさく)を受けることにしました。

住職が後ろを通りかかるタイミングで合掌します。直ぐに気付いてもらえたようで、ひたと右肩に棒が乗せられました。

合掌のまま首を左に傾け、右肩を空けるように体を傾けます。

「パーン」という軽く乾いた打撃音を響かせつつ、警策が右肩にしなやかに打ち付けられます。脳が軽い痛みを認識し、一時的に思考が停止します。

受けおわったら合掌低頭して、両手をもとの法界定印に戻します。

以上のような流れで、だいたい40分くらいの時間を過ごします。この時間はだいたい線香1本が燃え尽きる時間とのこと。

その後、お経を唱えます。いろいろなお経があるようですね。

通いはじめてからずっと「般若心経(はんにゃしんぎょう)」を唱えていましたが、今回は「妙法蓮華経如来寿量品偈(みょうほうれんげけょうにょらいじゅりょうぼんげ)」なるお経を唱えました。いずれにしても、朝の読経は頭がすっきりするように感じます。

般若心経
これは般若心経です

通常はこの後に片付けをして終わりとなりますが、今回は違いました。

【涅槃図を鑑賞する】

お釈迦さまの命日が2月15日なので、毎年2月に入ると、各地のお寺ではお釈迦さまの入滅の様子を描いた涅槃図が掲げられ、お釈迦さまをお偲びする涅槃会が行れるそうです。

入堂の時に見た涅槃図はやはり私にとっては初めて見るものだったようです。

せっかくの機会なのでと住職が涅槃図について説明をしてくださいました。日本においての涅槃図は鎌倉時代以降に多く描かれているとのこと。この涅槃図も縦長の俯瞰図であることから、おそらくは鎌倉以降の作なのでしょう。

画面中央には涅槃に入るお釈迦さまが描かれています。

また、お釈迦さまの周りを沙羅双樹(さらそうじゅ)の木が囲んでいます。

向かって右側の4本は白く枯れています。これは、お釈迦さまが入滅されたことを人間や動物だけでなく、植物も悲しんだことを示しているそうです。

一方、左側の4本は青々と葉を広げ花を咲かせています。これは、お釈迦さまが入滅されてもその教えは枯れることなく連綿と受け継がれていくことを示しているとのこと。

画面右上には、お釈迦さまの生母である摩耶夫人(まやぶにん)が雲に乗って駆け付け、赤い薬袋を投げ入れています。しかし、薬袋は木に引っ掛かりお釈迦さまには届きません。一説によれば、これが「投薬」という言葉の由来となったとのこと(諸説あるようです)。

お釈迦さまを取り巻く位置や画面の下方には、嘆き悲しむ人々や生き物たちが多く描かれています。

また、画面左手の中央の高さよりやや下の位置に、お釈迦さまの入滅の原因となる食事の施しをした純陀(じゅんだ)という人物の姿が描かれています。

その顔は、取り乱して嘆き悲しんでいるのというではなく、取り返しのつかない事態に放心しているように私には見えました。

なぜか私は、仮想通貨流出事件の記者会見を思い出してしまいました。

ところで、通常は涅槃図に描かれる生き物たちの中に猫はいないのだそうです。これは、ねずみがお釈迦さまの使いとされていることが由来とか。

しかし、このお寺の涅槃図には猫が描かれています。かなり珍しいことのようですが、涅槃図における「猫」は、絵師が「遊び心」で自分の飼い猫をそっと描いたり、依頼主が猫を入れてくれとお願いしたなどの理由があるそうです。

これから涅槃図に出会った際は、まず画中に猫の存在の有無を確認してしまいそうですが、一説によると日本では数例が確認されているのみとのことで、なかなか他の場所で出遭うのは難しいかもしれませんね。

【エピローグ】

久し振りの参禅会で、思いがけず猫のいる涅槃図を鑑賞するという僥倖に浴することが出来ました。

今回改めて感じたことは、西洋絵画にしてもそうなのですが、絵の含意なり約束事を理解することで鑑賞の楽しみは大きくなるのだなということでした。

しかし一方で、坐禅と絵画鑑賞とでは、実は脳の使い方が対極にあるような気もしました。うまく言えないのですが、脳を休ませに行ったところが逆にフル回転させてしまったような感じでしょうか。

まあ、とても満たされた気分であったのは間違いありませんので、あまり深く考えないようにしましょう。

(終わり)