【近代日本画】2019年8月 横浜美術館開館30周年記念 生誕150年・没後80年記念「原三渓の美術 伝説の大コレクション」

【近代日本画】2019年8月 横浜美術館開館30周年記念 生誕150年・没後80年記念「原三渓の美術 伝説の大コレクション」

横浜美術館

会期 2019年7月13日~9月1日

【プロローグ】

8/3付日本経済新聞の文化欄で、本展覧会の紹介記事が掲載されていました。

その中で、先日山種美術館で鑑賞した速水御舟の代表作の1つである「京の舞妓」が展示されていることを知りました。「京の舞妓」は山種美術館の所蔵ではないためその時は鑑賞出来ていませんでしたので、この機会を逃しては後悔すると思い、「京の舞妓」の展示最終日である8/7に足を運ぶことに。

会場である横浜美術館は、横浜市政100周年・開港130年を記念する「みなとみらい21(横浜博覧会)」の幕開けと同時に、1989年に開館しました。モダンな雰囲気の建物で、今年が開館30周年の記念の年となります。

本展に名を冠する原三渓(1868〈慶応4〉ー1939〈昭和14〉)は、本名を富太郎といい、横浜で明治後期から昭和初期にかけ生糸貿易で活躍した実業家です。

美術史においては、古美術の大蒐集を行いながら大正という時代に新しい絵画を創造する画家を育てようという卓抜した理想を実践した人物でもありました。

原三渓
展覧会の展示パネルより

今回の展示は以下の構成となっています。

  • プロローグ
  • 第1章 三渓前史ー岐阜の富太郎
  • 第2章 コレクター三渓
  • 第3章 茶人三渓
  • 第4章 アーティスト三渓
  • 第5章 パトロン三渓

国宝や重要文化財に指定される名品も多く見応えのある展示でした。以下に自分が特に印象的だったいくつかの作品について記述し、備忘録としたいと思います。

【第1章より 国宝「孔雀明王像」】

孔雀明王像
「孔雀明王像」 平安時代後期(12世紀)  絹本着色・一幅 147.9×98.9㎝ 東京国立博物館(TNM Image Searchより画像引用)

国宝とは、文化財保護法により定められた重要文化財のうち、「世界文化の見地から価値の高い」「たぐいない国民の宝」と認定された美術工芸品や建造物のことをいいます。

この「孔雀明王像」も8/7までの期間限定出品でしたが、幸運にも鑑賞の機会を得ることが出来ました。

三渓は明治末期、「孔雀明王像」を、元大蔵大臣の井上馨から当時としては破格の1万円で購入しました。

この購入は「レコード破り」として大きな話題となり、今日三渓について語る際、必ずと言っていいほど取り上げられる有名なエピソードとなりました。

ちなみに、当時の公務員の初任給が50円、グランドピアノが1000円で、グランドピアノ10台分とほぼ同額とのこと。

毒蛇や害虫を食べる孔雀は、さまざまな災難をはらう功徳があると考えられ、仏教の世界では孔雀明王として信仰の対象になりました。

この孔雀明王を本尊として行う密教の修法(密教で行う加持祈祷)を孔雀経法といいます。

そこで用いられたのが孔雀明王像で、孔雀明王は4本の腕を持ち、孔雀に乗った姿で描かれるのが一般的です。

手には倶縁果(ミカンのような果物)、吉祥果(ザクロ)、孔雀の尾を持っています。

【第5章より 今村紫紅「近江八景」】

今村紫紅(1880〈明治20〉ー1916〈大正5〉)は、松本楓湖の安雅堂画塾出身で、師匠の放任主義を活かし切るだけの研究心と才能とを持ち合わせ、絵巻にはじまる古典絵画と西洋絵画とを貪欲に吸収した画家です。

紫紅は37歳で歿しますが、その晩年はまさに日本画界に革命をもたらすものだったようで、「こんなに固まってしまっては仕方ない、兎に角破壊することだ」という言葉が伝わっています。

今回鑑賞出来たのは8幅対のうち4幅でした。

今村紫紅のこの作品は、1912(大正元)年の第六回文部省美術展覧会(文展)に出品され二等賞を受賞しています。

以下、「日本画とは何だったのか 近代日本画史論」(古田亮著/KADOKAWA/2018年1月)より「近江八景」についての解説を引用します。

「中国の瀟湘八景を真似て琵琶湖畔の名勝八景を描いた近江八景の画題は、江戸時代にはすでに馴染みのものとなっていたが、紫紅のそれは「石山秋月」「比良暮雪」といった季節と名所を組み合わせる従来の約束にとらわれてはいない。「石山」では月は描かれず、比良山に残雪がある「比良」も雪景ではない。それどころか夏を思わせるもくもくとわき上がる雲と陽光が溢れる真っ青な琵琶湖水を描いたのは、この年の七月から八月にかけて実際に琵琶湖付近を旅して歩き、その折の印象とスケッチをもとに八景を作り上げているためである。伝統的な名所絵の規範を脱した近代日本画における印象派的風景画の誕生である。」

【第5章より 小林古径「極楽井」】

小林古径(1883〈明治16〉ー1957〈昭和32〉)は、テーマとして歴史画題が多かったということと、線描を中心とした端整な画面づくりによってしばしば「新古典主義」の名で賞賛されてきました。

古径は画業の初期において、写実性に基づく浪漫的歴史人物画をよく描きました。古径芸術がひとつの完成をみせるのが1912(大正元)年の「極楽井(ごくらくのいど)」で、シャープな線的構成と一層清楚な色感をみせています。

浅井了意の「江戸名所記」に挿絵入りで極楽井の項があり、古径はこの挿絵の模写をしていることから、本図の参考にしたものと思われています。

「江戸名所記」に記されているのは、東京の小石川伝通院の裏手、吉水山宗慶寺にあった井戸です。

宗慶寺は室町時代に遡る由緒ある浄土宗の名刹ですが、この寺の井戸は古くから霊泉として知られていました。

古径はこの作品を描くにあたって桃山時代の風俗を選んでおり、こちらに背を向けた少女の小袖の文様に使用されたイエズス会の紋章である「IHS」のマークがそれを象徴しています。

「極楽井」
「極楽井」 1912年  絹本彩色 軸 193.5×100.8㎝  東京国立近代美術館

【第5章より 小林古径「異端」】

「異端」
「異端」 1914年  絹本彩色 軸 133.4×239.0㎝  東京国立博物館(TNM Image Searchより画像引用)

「極楽井」と同じく古径初期の代表作のひとつである「異端」(1914〈大正3〉年)も印象深い作品でした。

3人の女性が蓮池の前で絵踏(えぶみ)に臨む場面が描かれています。

絵踏(えぶみ)とは、江戸幕府がキリスト教信者を発見し弾圧するために、キリストや聖母マリアの像が描かれた絵・木板・銅板などを足元に置き、踏むことが出来れば信者ではないと判定する手法です。その時に使われた絵・木板・銅板などを踏絵(ふみえ)と呼びます。

先頭の女性と十字架のキリストと思われる踏絵の間には距離があります。これは先頭の女性が信者であることを暗示しているのでしょうか。

女性の表情は緊張を隠すため努めて平静を装っているようにも見えるし、覚悟を決めた後の穏やかな表情にも見えます。

画面全体の色彩の柔らかな美しさとは裏腹に、この後に起こり得るのが、自らが異端であることが露見し捕らえられる悲劇か、主を蹂躙する背信行為のみによって得られる見せかけの平穏しかないことを想像すると息苦しくなります。

また、蓮華が暗示する仏教的世界と踏絵に象徴されるキリスト教的世界が対比的に描かれていますが、これは洋の東西で異なる宗教観の表現を意図したものでしょうか。

さらに、先頭の女性の着物の柄に目を引くものがありましたが、これは近世初期風俗画の影響でしょうか。

【第5章より 速水御舟「京の舞妓」】

「京の舞妓」
「京の舞妓」 1920年 絹本着色 153.9×102.1㎝ 東京国立博物館(TNM Image Searchより画像引用)

大正期の日本画壇に芽生えた細密描写の傾向は、洋画では後期印象派やデューラーの影響を受けた岸田劉生の草土社系の画家に顕著に表れましたが、日本画家では劉生が直接種々の忠告や指導を与えていた速水御舟の存在が大きいです。

「京の舞妓」においては、顔や衣装に陰影を施し、衣装の鹿の子絞りやほこりのつまった畳の目一つひとつまで描き分けた圧倒的な細密描写に御舟の執念のようなものを感じます。

展示の最後を飾るその画面からは、美しさとは異なるリアルな迫力が伝わってきました。

御舟の徹底した細密描法は、美でも醜でもない真実を描くための手段だったと解釈されています。

【参考文献】

日本画とは何だったのか(古田亮著/KADOKAWA/2018年1月)

画題で読み解く日本の絵画(佐藤晃子著/山川出版社/2014年8月)

日本画入門ーよくわかる見方・楽しみ方ー(細野正信著/ぎょうせい/1994年1月)

小林古径展(日本経済新聞社/2005年)

【関連リンク】

東京国立博物館 研究情報アーカイブズ/https://webarchives.tnm.jp/