【現代美術】2018年12月 素人の美術鑑賞 上野「マルセル・デュシャンと日本美術」
【プロローグ】
最近の新聞記事で、美術鑑賞によって発想力を鍛えビジネスに活かすという書きぶりの記事を読みました。
書店でも、西洋美術への造詣の深さが世界のエリートの方々とのコミュニケーションツールになるとの内容の書籍が販売部数を伸ばしているようです。
まあ、私には縁遠い話ですので、自分にそのスキルが必要とは微塵も思いませんが。
ただし、美術に全く興味がないかというとそうでもなく、新聞の文化欄の関連記事や美術館の展覧会情報には、割とまめに目を通しています。
しかし、美術館訪問となると、これまでの私にとってのそれは「営業時間中に休憩する目的」以上のものではなく、真に鑑賞目的で訪れた回数は、両手で数えれば余りますというほどしかありません。
20年ほど前、日本人が好むとされている(のかも確信が持てませんが)、ルノワールやモネといった印象派と呼ばれる画家たちの展覧会が話題になっていた時(オランジュリーです)に、私も知人の方と張り切って観に行ったものの、入場者が多過ぎてゆっくりと鑑賞することが出来なかったことを昨日のことのように覚えています。
最近、自由な時間が多少増え、再び自分のアート的なものへの関心が高まっていたところへ、たまたま立ち寄った上野公園の掲示板の展覧会情報が目に留まりました。
それは、今年没後50年(フジタと同じですね)にあたるマルセル・デュシャンの展覧会(マルセル・デュシャンと日本美術)。東京国立博物館での開催です。心惹かれたのでちょっと覗いてみました。
実は、マルセル・デュシャンというアーティストのことは、詳しくはよく知りませんでした。
ただ、どうやら現代アートの巨匠のようで、男性用小便器に《泉》という名前を付けて美術展に出品したという話は何となく覚えていました。
(驚いたことに、小学生の上の子はデュシャンの名前を知っていました。テレビ番組でやってたのかな?)
最近は美術館のチケット予約もスマートフォンで完了出来るようですね。まあ便利になったものです。少し怖いくらいですが。
クレジットカード決済にて1200円のチケットを購入、美術館の入口でスマートフォンに送られてきたQRコードを読み取ってもらい、発券してもらいます。
展示室の入口には、《自転車の車輪》がありました。向かって左側の壁面には、車輪の直径にほぼ収まるように撮影されたデュシャンの写真パネルが展示されています。
ちなみに、一部を除いた展示品の撮影が、私的な利用に限り許可されていました。東京国立博物館のサイトで著作権についての記述を見る限り、個人の営利目的でないWebサイトでの写真利用は問題なさそうです。
デュシャンの写真を観るのはこの時が初めてでしたが、何となく思い描いていた通りのスタイリッシュな感じの方。ハンサムで女性にもてそうです。
一方、《自転車の車輪》についての印象は、「・・・」。
率直に言って何がいいのかさっぱりわかりません。
デュシャンは、《自転車の車輪》をアトリエに置いて、横を通るたびに車輪を回転させては、暖炉の炎の揺らめきに見立てて楽しんでいたそうですが、この《自転車の車輪》は、「レディメイド」(既製品)と呼ばれるジャンルの作品?です。
「レディメイド」は、のちに「オブジェ」(既製の立体物をもとに制作される立体作品)への展開のきっかけのひとつとなるなど、絵画や彫刻といった伝統的なジャンルに収まらない現代アートの表現の出発点として大きな影響力を持つことになったとのこと。
実は、予備知識なしで展示物を鑑賞した結果、当日の私の、デュシャンが言うところの「網膜的な」鑑賞眼では、デュシャンその人とイブ・バビッツのルックス以外には感じるところがありませんでした。
そのため、デュシャンのどこがいいのかを知るべく、後日、図書館で3冊のデュシャン関連本を借りて学習を行って記述しています。
【画家としてのデュシャン】
多くの絵がキュビスムと呼ばれる様式で描かれていました。
私がキュビスムと聞いて思い浮かべるのはピカソですが、ピカソたちがたどったキュビスムと、デュシャンのそれは別のもののようです。
数学が得意な方ならピンとくるのかよくわかりませんが、ピカソたちのキュビスムが、「視覚的」な「三次元」の構成(三次元→二次元)を求めるものであるのに対し、数学への強いこだわりを示したデュシャンがたどるのは、「概念的」なさらなる「高次元」の構成(四次元→三次元→二次元)を求めるものであるとのこと。n次元幾何学というものらしいですが、意味がほとんど分かりません。
画家としてのデュシャンの作品の中では、《階段を降りる裸体No.2》という作品が一番有名みたいですね。
ところが、その作品は私の「網膜的な」鑑賞眼の網にかかることはなく、撮影をしていないという不覚。がっかりです。
私は何故か《肖像(ディルネシア)》を撮影していました。形が認識出来たから印象に残ったということなのかな?
件の《階段を降りる裸体No.2》を含む4つの作品が、キュビズム当時の最先端の前衛作品として「国際現代美術展」(アーモリー・ショー)に展示されたのですが、当時のアメリカの保守層には受け入れられず、さまざまな非難を浴びたそうです。
しかし、その結果として、デュシャンはフランスでは駆け出しでしかなかったにもかかわらず、アメリカでその名を知られることになったとのこと。何か「神の見えざる手」的なものを感じます。
ともあれ、デュシャンは絵画を通じ、「運動」を表現することに興味があったように感じます。
【「芸術」でないような作品を作ることができようか】
《泉》のレプリカが展示されていましたが、展示品そのものはただの「男性用小便器」で、鑑賞したところで何の感慨もありません。やはりエピソードあっての《泉》なのだと再認識した次第です。
展示を見たときにはピンと来なかったものの、後日の学習で最も興味深かったのが、《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》という作品にまつわる記述でした。
この作品は、通称《大ガラス》と呼ばれていて、展覧会では日本人監修によるレプリカが展示されていました。
私が撮影したのは、1926年の「国際モダンアート展」に展示されていた作品の写真でした。
もちろんこの時はこの作品のストーリーなど知らないので、タイトルには大いにそそられるものがあったのですが、絵柄が何を意味しているのか全く分からず、「ふーん・・・」でおしまい。
後日の学習によると、この《大ガラス》のオリジナルは縦3メートル弱、横1.75メートルに及ぶ巨大なガラス製で、大きな板ガラスを2枚縦に並べ、その間に細長い板ガラスを垂直に挟むという作りになっています。
2枚のガラスには、機械と有機体が混在するような奇妙なイメージ群が描かれていて、下側のガラスは「独身者の領域」、上側のガラスは「花嫁の領域」と呼ばれ、男性の世界と女性の世界が上下に分割されて視覚化されているとのこと。
また、中間の垂直に差し込まれた細長いガラスの部分は「花嫁の衣装」と呼ばれています。
そして、花嫁(=女性)と独身者(=男性)の性的な欲望が、さまざまな絵柄で表された装置の間を移動して性エネルギーの交換がなされる、というのが《大ガラス》の基本ストーリーです。
「独身者の領域」には、チェス駒のような筒状の絵柄が描かれています。
これは独身者たちそのもので、男性が従事する9つの制服着用の職業(騎兵、憲兵、ドア・ボーイ、デパートの配達人、執事、僧侶、墓掘り人夫、駅長、警官)が図案化されているとのこと。
また、「花嫁」はガラス上部左隅に位置しています。
その形状は、私には言葉で上手く表現することが出来ません。
「花嫁」について、デュシャンは対談で次のように語っています。
・・・「花嫁」は、そういってよければ、一種の機械の花嫁なんです。〈中略〉・・・「花嫁」はいわば、わたし自身の花嫁という発明品、半分ロボットで半分四次元の世界の住人である新しい人間なのです。・・・
半分四次元の住人である花嫁は、機械のような肉片のような不思議な形態をした「概念」なんだそうです。
《大ガラス》においては、それを構成しているすべての要素、つまり支持体、メディウム(媒体)、絵柄、タイトルを含めたあらゆる関係項が、「考えよ」と鑑賞者を誘うように仕組まれていて、視覚が思考を喚起し思考がイメージを紡ぎ上げる豊かな関係が担保されているという本の説明を読んで、ようやくその価値について納得出来た次第です。
【《遺作》 欲望の女】
このコーナーで最も印象に残ったのは、イブ・バビッツのルックスですね。当時二十歳。
1963年にパサデナ美術館で、デュシャンの大規模な回顧展「マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィによる、あるいは、の」が開催され、《大ガラス》の前で裸の女性とチェスをするデュシャンの姿が撮影されました。そのヌード・モデルとなったのがイブ・バビッツです。
写真では顔は見えませんが、展示室のパネルで当時の彼女の美貌を見ることができました。Wikipediaによると、イブ・バビッツは小説家だったんですね。彼女がロックバンドThe Doorsのジム・モリソンとロマンティックな関係にあったというのはちょっと驚きです。
後日の学習によると、どうやらこのコーナーでの最重要作品は、《与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガス》(遺作)のようです。
今回鑑賞したのは映像資料でしたが、オリジナルはフィラデルフィア美術館に展示されています。
それは巨大な立体作品で、高さ1.778メートル、幅1.245メートル、奥行きが2.426メートルにも及ぶもの。
美術館の展示室の中でも最奥、一見すると何もない小部屋に扉があります。
扉の中央少し上、床から150センチ程度の場所に2カ所穴が開いていて、鑑賞者がその穴から両目で覗き込むことによって、「性的快楽以前のこの花嫁の最後の状態」であるかのように仰向けになり脚を広げて横たわる女性の「裸体」を目にすることになります。
床にはチェス盤のような黒白柄の床材が敷かれ、その上に大きな木製のテーブルが置かれています。
テーブルの天板上には枯れ木や枯れ草が全面に敷かれて河原の叢のような様相を見せ、その叢に「裸体」が横たわっています。
鑑賞者から顔は見えないのですが、実際、見えないことを見越して(鬘のみが被せられ)顔は存在していません。
「裸体」の背後には深い森の情景が広がり、遠くの一角では滝が流れているのが見えます。
「裸体」が掲げ持つガスランプと背景の滝が、タイトルにある「落ちる水」と「照明用ガス」を示しています。
ところで、鑑賞者が扉の穴を覗き込んでいる間、順番待ちの人たちは、鑑賞者が扉にへばりついている姿を後ろから眺めることになります。
そうして、自分がそのうちこのような姿を人々の前でさらすことになるのを、作品を鑑賞する前に知ることになるのだそうです。ちょっと恥ずかしそうですね・・・。
【エピローグ】
久し振りに鑑賞目的で美術館を訪れる機会を得ましたが、正直デュシャンは「ハードルが高かった」です。
しかし、先入観なしで観た展示物を全くいいと思うことが出来なかったにもかかわらず、後日多少の学習をしてデュシャンの思考を拙い自分なりにトレースしてみると、たちまち夢中になってしまったのも事実です。
デュシャンの作品は網膜的に鑑賞して楽しんで終わりというタイプのものではなく、メモを読み込み絵柄を分析することによってさらなる楽しみを得るというものだということは何となく実感できました。アーティストでありながらデュシャンの研究者という人物が現れたのもうなずけます。
また、デュシャンは数学に並々ならぬ興味を示していたようなので、私も彼をもう少し深く理解すべく、さしあたっては、「四次元超立方体」を作図してみようかな、などと思いました。
最後に、「運動」を表現した絵画を一つ思い出したので記しておきます。自分の上の子の小学校低学年の時の作品です。タイトルは「しまのまわりをぐるぐるまわるせかい」。
(終わり)
参考文献:
平芳幸浩「マルセル・デュシャンとは何か」河出書房新社 2018年
中尾拓哉「マルセル・デュシャンとチェス」平凡社 2017年
カルヴイン・トムキンズ(聞き手)中野勉(訳)「The Afternoon Interviews」河出書房新社 2018年
-
前の記事
記事がありません
-
次の記事
【仏教美術】2019年2月 仏教美術入門の入門 参禅会で涅槃図を観る